ペンよさらば

手書きがコンプレックス

「子供の意見」は必要か?

はい、どうもこんにちは
1冊読むあたり3冊の本を買う悪癖を持つ男です。田中です。
アキレスと亀」とは違って全くこの差が縮まる気配はないですね。病気ですよ、はいはい。


先に言っておくと今回はコンクリートみたいに真面目な記事になる予定です。

つまらないかもしれないけど、興味のある人は読んでいってください。
いつもみたいな「狂文」が読みたい人は僕の過去記事へGO




じゃあ書きますか。
さっき受けた大学の講義(オンライン)の振り返り的な記事にするつもりです。いい感じにカフェインも回ってきたので一気に書き上げられそうです。ぐへへ

本当はこういう真面目な記事は、はてなブログじゃなくて自分のブログでやりたいんですけどね。まだできてないんですよ。はてブロはふざけたり、狂ったりするためだけに使いたいので早く作らなきゃ

wordpressに詳しい先輩は捕まえたんですけど、僕のチキンっぷりを舐めないでください。
まだなんにも行動が起こせてないです。なんのためにお金貯めたんだ俺のバカ。





はい!
ってなわけです。
まず今日受けた講義ですね。
特定が怖いので正式な講義名は言わないですが、より学際的でカリキュラムの枠組みを越えた教科横断的な教育について学ぶ講義とだけ言っておきます。

って長ぇな。
曲解も覚悟で簡単にいうと「教科に関係なく知識を総動員して考える」
そういう授業をデザインするためにはどうするかって講義です。

上手く説明出来なくてすみません。


で今日やったことは
じゃあ実際に自分たちが1つの問いに対して考えてみよう!って感じ

詳しく言うとはNHKのとある動画(下の画像)をみて、みんなでディスカッションって感じです。
ちなみにまだ最初なので日本語で話し合って良いそうです。良かったー

f:id:tsu-bu-run-run:20200505213828j:plain
(NHKのリンクが貼れないし、貼れても有料なので画像で許してね)

てか今調べたらNHKの緊急特番でユヴァル・ノア・ハラリさんをまじえた対談があるみたいね。
f:id:tsu-bu-run-run:20200505213852j:plain

はやく言えよ!したら契約してたのに!!



まあ動画の内容を要約すると
「コロナの影響でいきなり休校にされた小学校の六年生たちが『大人の都合でいきなり休校にしないで欲しい。自分たちの意見も聞いて欲しい』と主張」
といったところ



じゃあここから僕が考えたことです。

まあ上の要約を読んだ時に「そんなのは子供のわがままだ!」って思った人がいらっしゃるんじゃないですか?
実際、僕はそう思いました。
大人と子供で比べれば、賢いのは大人のほうだということは自明。
ちょっと鋭い子はいるかも知れませんが、それでも知識はまだ粗削りですし、小学生なら尚更です。


でも動画の中の子供たちは話し合いを続け、そして「子供と大人の境界線って何だろう?」という問いに行き当たります。



これは難しいですね…。

「成人」って言葉を持ち出すなら、歳を数えていって20進数が繰り上がる時に当たるわけですが、これは「大人」とは少し違いそうです。

選挙権を巡った問題でも話題になりましたが、喫煙や飲酒といった肉体的に影響を受けるものは除き、一部では18歳が大人と認められたりしましたし

うーん

で考えぬいて一つ気がついたのは子供のことを「大人の予備軍」と捉えている自分がいたという事です。



成長を急かし、成熟するまで余計なことはするなって考えを持ち始めていたということです。
ここまで極端じゃないですけどね。


そして、そう思われることを子供が嫌がるということを思い出しました。
そういえば倫理の授業で「デュナミス(可能態)」という言葉を習った時に
「子供は大人のデュナミス」といった例に少しの違和感を感じたんでした。


偶然にも僕は今19歳。

ちょうど何かに染まりきる時期、という感覚があります。

面白いですね。たかが数字なのに「20」という数字で何かが大きく変わる気がしてしまいます。(「たかが数字」なんて言ってると森博嗣さんに怒られそう)



で、そのことを思い出した時に考えが変わりました。

子供は知識と経験の足し算だけで大人になれるわけでなく、その中には確実に引き算も含まれている

という具合にね。

思えば、子供は大人にはない特有の「鋭さ」を持っている気もしてきました。

山田詠美さんの『ジェシーの背骨』という短編にもその「鋭さ」があらわれていましたね。(てかなんで詠美さんがあんなに子供の鋭さを描けるのかがほんと謎)

そいやロックでしたっけ?
生まれたばかりの人間を「タブラ・ラサ(白紙)」と呼んだのは。

最初はそうかもしれませんが、成長の途中で大人になると失ってしまう何かを身につけると断言できそうです。






じゃあ何がその何かをこそぎ落とすのでしょう。

それこそ「常識」と呼ばれるものではないでしょうか。

教師や親をはじめとした大人が教育という大義のもと、子供たちに「当たり前」を教えます。


そして何かは常識に押し出される形で道を譲ります。そのプロセスの先に「大人」と呼ばれるものがあるとしたら…






養老孟司が「かけがえのないもの」の例として「こども」を挙げていたことを思い出しましたね。

あと思い出すのはピカソの言葉

“子供は誰でも芸術家だ
問題は
大人になっても芸術家でいられるかどうかだ”


でも常識は大切。これは譲れない。
現代は制度などがより錯綜とした社会ですから尚更です。
放っておいて「牧歌的で平和」になるとは思えません。
それで済んだらいじめの問題でここまで悩むことはなかったでしょう。

であればどうするのが良いのか。




ここで戻ってきて結論としますか
「子供のうちに意見を主張させる」

これだと思います。
その機会を、場を、聞く耳を持った人を用意する。


これが大切なんじゃないでしょうか。

大人たちは幼稚にも思える主張の中に自分が失ったものを再発見する

これは大人のためにもなるはず。


世代対立という大火にコロナという油が注がれかけている今こそ、これをやるべきなんじゃってのを感じました。



具体的な案は考えてないですし
生まれるデメリットも考えてないです。

戯言で終わりそうですね。学歴も欲しいな


これで終わりとしましょう


それでは、またいつか